kurage__flyの日記

それでも、大人になる

中学受験のこと

私が受験を決めたのは小5の夏だった。

小4の終わりにたまたま受けた模試、学校で一番の成績だった私は全国ではどのくらいの位置にいるんだろう、そんな軽い気持ちだった。

結果は散々だった、ショックを受けた。

それから半年間弱、自力でたくさん勉強して、小5の6月にまた同じ模試を受けた。

点数は格段に上がった、算数は満点、国語も9割取れていた。

この時期からの入学生としては特例、上のクラスに入れてもらえると塾長から言われた。

中学を受験するなんて概念がそもそもなかった私だけど、「その成績で受験をしないのはもったいない」という言葉に揺れた。今まで見たことのない上の景色を見たいと思った。母親も乗り気で、入塾を決めた。

 

けれど、想像していたより何倍もしんどかった。今まで塾に通ったことのない私にはその環境の変動が肉体的にも精神的にも負担になった。帰宅は毎日21時半を過ぎる。寝るのは日付の変わった頃。生活リズムは一変した。

それまで人見知りなんて一切したことなかったのに「この人たちみんな自分より頭のいい人たちなんだ…」って威圧されて、塾では一言も話さなかった、話せなかった。

他の子より1年半以上遅い入塾だったから私が入った時にはもう理科社会のカリキュラムは一周終わっていて、ついていくのが精一杯だった。理社は最後の最後まで苦手科目として足を引っ張ってしまった。

初めて電車を乗り継いで受けに行った大きい会場での模試は偏差値50を切る教科があって、クラス最下位で、「この次もこの成績だとクラスを下げるかもしれない」と言われた。良く分からない感情に意図せず涙が出てきた。

 

全国模試の成績優秀者として冊子に名前が載ったのは結局一度だけだった。

入塾当時は全国で一番の学校に入ると豪語していたのに、受験間際には目標なんてもうぐちゃぐちゃだった。

 

受験期何回も「あと数ヶ月頑張ればもう目一杯遊べるんだから」と言われた。小学6年生の私はその言葉をまっすぐに信じて毎日10時間以上勉強した。しんどくて布団に入ってから毎日のように泣いていた。寝る直前に冷凍庫から保冷剤を2つ取ってきて、布団に潜って泣いた後に目に乗せてそのまま寝落ちしていた。成績が下がれば母親から怒鳴られて、ギャン泣きして翌日腫らした目で模試に向かったことも何回もある。

「偏差値の低い学校にわざわざお金払って入る必要ない」が母親の口癖だったから、塾の先生に猛反対されていたというのに第一志望第二志望第三志望と全て自分の年間平均偏差よりも8以上高い学校だった。気付いた時には「私の志望校」ではなく「母親の志望校」になっていた。それでも、塾の先生が言っていた、「親に土下座して「受験やめさせてください」って言えないなら勉強しろ。」という言葉を思い出してなんとか自分を奮い立たせていた。年間100万円以上かかる塾代、そりゃ母親も期待する。軽い気持ちで「受験する」って言ってしまった自分を恨んだ。

 

入学試験、散々な結果だった。

第一から第三志望校まで全部落ちた。

今でも覚えている、第一志望の合格発表の時、カメラがいくつも入っていて、合格を掴み取った子たちを映していた、そして私はその子たちの横を逃げるようにして俯いて歩き去った。夕食中にニュース番組で合格発表の掲示を待つ私が映っていた。母親にも「〇〇くんのお母さんがテレビに映る(私)を見たって。」って言われた。惨めだった。

その時合格をもらっていたのは滑り止めで受けた学校だけ。行くあてがなかった、第三志望の合格発表後、母親に呆れられて「もう不合格の電話をかけるのは嫌だ」って置いて行かれて、駅のトイレで泣きながら塾に電話をかけた。

それでもなんとか翌日の試験で合格して、帰り道、塾に電話をかけた。思わず笑みが溢れた。あの帰り道の景色、「昨日は泣いていてどうなるかって大丈夫かって心配だったけど今日こうやって明るい声が聞けてよかったよ。」って塾の先生に言われたこと、今でも鮮明に覚えている。

そんな時に告げられた第二志望校からの繰り上げ合格。あんなに喜んでいる母親を見るのは初めてだった。急遽進学先を変えた。言葉で表現できないくらい嬉しかった。

もともと行く予定だった学校も偏差値60を超えていたけれど、同級生にどこ中に行くか訊かれた時、恥ずかしかった、言えなかった。

この学校なら、胸を張って名前を言えると思った。

 

どんな友達ができるだろう

授業ではどんなことを学べるんだろう

春からの新生活に胸を躍らせた。

 

こうして、私の「中学受験」は満開の桜が咲き誇って幕を閉じた。