kurage__flyの日記

それでも、大人になる

支援措置レポ

 春から大学生としての新生活を始めるにあたって受ける事を決めた支援措置。支援措置とは簡単に言えば私の場合は親に住所をバレないようにするためのもの。春から大学の運営する学生寮に入るので、進学か就職かも親に伝えないでくださいと各位に伝えていた身、ここで閲覧制限をかけないとその努力が水の泡になるというのが1番大きな理由。あとは在園中に唐突に荷物や手紙を送ってくるという母の不可解な行動が見られた事も理由の一つではあります。

 3月頭に家庭支援担当の職員に支援措置をかけたい旨を伝えたところ、怪訝な顔をされました。何回も「そうしない選択肢は無いのか」と聞かれました。その理由については未だによくわかっていません。私としては寧ろかけない選択肢がなかった。 協力的では無いので仕方がない、自分で調べて自分で動こうということで3/15に一気に動きました。引っ越しと同時にかけるので支援措置は転出・転入とセットで手続きすることになります。

 

 <支援措置に必要なもの>

・転出証明書

・措置申込書

・本人確認のできるもの(受診券と学生証と通帳)

 

①措置申込書の判子は誰が押すのか問題 

 まずは引っ越し先の市役所へ電話。何回かやりとりをしましたがこの市は終始つっけんどんな対応。事情を伝えると「まずは警察へ行き事情を話して下さい。」とのこと。おそらくこの市は措置申込書の判子は警察しか押せないと認識してるようで、私の「児相に捺印してもらうことについては了解を得ています」も聞きいれてもらえませんでした。兎にも角にもそう言われたので今度は今住んでいる市の警察署へ電話。こちらはほのぼのした感じでしたがその分その手のことにあまり詳しくなさそうな雰囲気。確認をするので、と一旦切れたあと折り返しで「今まで警察に相談とかをしていた訳ではないので、警察ではなく児相に措置申込書の記入をお願いして下さい。」とのこと。「やっぱりそうだよね〜」と思いつつ、再度引っ越し先の市役所に「やはり児相の捺印で大丈夫です、書式は総務省のものをこちらで印刷して記入する形で問題ないですか?」と電話をし、「書類は現住所の市役所でもらって下さい」とのことで捺印誰がするのか問題は無事解決。

 

②身分証明証がない!

 住民票を取るときもつっかかったのですが、身分証がない問題。諸事情で学生証がちゃんとした身分証明証として機能しない上、保険証も持っていない私。市役所で書類を受け取るなどで身分証明証の提示が求められる際は住民票は使えません。そのため代理人を立てて受け取る方法でしか大抵の証明書類は手に入らないのです。今回の転出と申込書をもらう手続きはどうにか融通を効かせていただけたのか、受診券と学生証のダブル使いで身分証明証として認めてもらいました。

 

神対応すぎる職員さん

 事前に電話で事情を説明した上で窓口へ。電話対応してくださったかたがまぁ親切で懇切丁寧に説明をして頂き万全の状態で出陣。窓口対応してくださったのは別の方だったのですがその方もまた神対応。「転出届は1ヶ月前からできるので今日しちゃいましょう!何回も市役所来るの大変ですよね〜!」とその場で転出届を書き、支援措置も含めて手続きを。ここでポイント!「転出日が未来日の場合、転出先はフェイクでOK!」ちなみに書くのは「〇〇県〇〇市」まででいいのです。私も全く縁もゆかりもない地を引っ越し先として書いて提出しました。転出手引きの紙に転入手続きの際の持ち物まで記入していただき、転出証明書を貰いました。「私もしつこい人間なので引っ越し先の市役所に事情を話して身分証明証がこれで大丈夫なように念押しておきました。紙にちゃんと残しておいて下さい、って頼んでおいたので大丈夫だと思います!」と転入先とまで完璧に連携を取って頂きました、本当に頭が上がらない。。そんなかんなで駆け回った1日も無事終了、あとは転入手続きの日を待つのみとなったのでした。

 

 今回実際に支援措置の手続きを通して感じたのは、機関によってそもそも認知度にかなり差があるということ。例えば最初に電話をした転入先の市役所の方がもう少し情報を持っていれば、わざわざ警察署に電話をかける必要は無かったな〜と。あと注意点としては支援措置は一回手続きをすれば万事解決!というわけでは無く、1年ごとに更新をする必要があります。いつまで児相が捺印をしてくれるのか?いつまで支援措置をかけるのか?などはまた直面した時に考えることにします、笑

 

〜番外編〜「分籍する?しない?」 

窓口担当の方に分籍をしなくても大丈夫なのか尋ねたところ、分籍のメリットは相手(私の場合親)が犯罪などを犯した際慰謝料などが請求されないというところが大きいらしく、住所を隠したいだけならわざわざ分籍までする必要はないそうです。

 

児童養護施設からの大学受験

 今年度の卒園生の高校名と春からの進路が載った紙を見る機会がありました。私はその時初めて知ったのです、4年制大学に進学するのは私だけだと。いろいろな事が繋がっていく感覚になりました。調べて持ってきた奨学金の資料を見せても職員さんが把握していることはまず無い、進学一本ですと宣言してからも何度も就職を選択肢として示される。なるほど、これが現実なのか、と。

①受験料6万円問題 

 私の住んでいた県には「フェアスタート応援事業費」というものがあります。それに含まれる大学等受験料支援費。「2校までとし、6万円。」との記載。進学がスタンダードの高校に在籍していた私からみれば、「6万円でフェアスタートな訳あるかい」とツッコミを入れたくなりました。6万円がはした金では無い事は分かるし、恐らく「共通テスト+国公立前期後期」分なのだろうとは思うのですが、やっぱり足りない。しかも私は施設に来る前から私大コースにいたので受験まで半年を切ったところでの国公立への変更もあまりに非現実的でした。私立大学一般入試は1校35,000円が相場です、私の志望した大学はどこもそうでした。となると1校しか受けられないのです。しかもその話を最初に伝えられたのが11月末、共通テストの支払いを済ませた後でした。職員さんも共通テスト申込の段階ではそのことを知らなかったのだと思います。それだけ大学受験、特に一般入試に挑む子は今までにいなかったのでしょう。社会福祉協議会には教育支援資金がありますが入学準備には使えても受験料の用途では受け付けられないと言われ、国の教育ローンは6等身以内に保証人がいないとダメだと言われました。受験期にここが1番大きな躓きだったと思います。ここまで絶望的状況なら今から就職に変えればもう少し落ち着いて新年度を迎えられるのかもしれない、と考えたりもしました。それでもここで進学を諦めるのはあまりに救われない気がして、必死に探してとあるNPO法人から8万円受験料として支援を頂きました。合わせて14万円。なんとか「共通テスト・共テ利用1校・一般受験3校」を出願。それでも周りと比べれば1人だけ圧倒的に少なくて、1枚に10校分の枠がある出願校を書く紙を周りは2枚3枚と貰う中私は1枚の上半分にも足らない枠で充分足りてしまうことが悲しかったし、受験後も「もっと出願できていたらな」と思いました。

 

②受験料は確保できても… 

 受験期に1番大変だったのが、四六時中お金のことを考えていたこと。奨学金の申請書一つ書くのにも何時間とかかります。名前を書けばいいだけじゃない、「高校生活について」「自己PR」「資金計画」「将来についての作文」などどれも推敲して労力と時間を費やして書いているのに倍率は優に10倍を超え落ちる確率の方が高い。藁にもすがる思いで送った先から数ヶ月後に届く不採用の通知に首を項垂れることが幾度もありました。「今まで祖父母からもらったお年玉を入れていた私名義の口座を渡して欲しいです」と母に頼んだこともあります。けれど返答は「私が貯めていたものなので進路を教えてくれない今渡すことはできません。」というもの。学校の昼休みに電話で問い合わせたり、考査前の自習時間に奨学金の申請書を書いたり。周りがギアを上げる中私だけあまりにも温度感が違って虚無感にずっと支配されていました。受験生に染まることも出来ず、かと言って就職に踏み切ることも出来ず、どこにも属せていない疎外感。周りに似たような人や相談できる相手がいないことは苦しかったです。

 

 令和元年度の高校卒業後の就職率は17.6%です。やはり世間一般との乖離の大きさを感じます。(ちなみに大学・短大への進学率は54.8%)モチベーションの差なんていうのもあると思います。社会的養護を受けている子が口を揃えて言うのが、「特にやりたいことないから就職する」です。私は初めてこの言葉を聞いた時とても驚きました。今までのコミュニティでは「特にやりたいことがないから大学行く」だったから。理由は同じなのに、選択が真反対になるのか…と。虐待や貧困の連鎖を防ぐためには教育が鍵を握っていると思います。奨学金や優先入試の制度も年々広がっている今、高校卒業後も進学する選択肢がポピュラーになればいいな、、と思う次第です。

中1の時すでに、父親とは3年以上全く話していない状態だった。

離婚間際になって母親と一緒に今後の話し合いの場に同席させられる場面があったが、その頃にはもう父親は家族ではなく「他人」だった。家族としての愛着形成はされていなかったし、そのことについて特段なんの感情も抱いていなかった。「父親」という存在に愛されることへの憧れはあれど、私の父親だった「あの人」に愛されたいと感じることはなかった。

発症は時間差だった。もう浄化されたと思っていた、意識的に浄化しようと思うことすらしていなかった。

それまで見えていなかった「世間」を見る余裕ができ始めた時、自分の「普通」ではない生育環境に対して様々な負の感情が生まれ始めた。

皮肉なことに、圧迫されていた日々に少しのゆとりができ始めた途端、ガタガタと音を立てて崩れ始めたのである。

嫉妬の矛先は「優しいパパ」を持つ子だった。まだ父娘の間に愛情があった幼少期の記憶を思い出した。

私の周りには私と似た環境の子はいなかった。みんな揃いも揃って優しいパパだった、厳しいと嘆く子も時たまお父さんのお茶目なエピソードを語っていたりして、悔しさに似た感情を抱いた。そういう話の時、私にはなんのネタもない。何せ最後にまともに交わした父親との会話は小5の時に洗面所であって「おはよう」と言ったという記憶。その「おはよう」すら随分久しぶりの会話だった。それ以前のことで鮮明に残っている記憶なんてない、唯一覚えているのは家族旅行に行った先で父親が機嫌を悪くして母親が怒っていた、というもの。そんな記憶しか持っていない私が口を開けば、間違いなく水をさしてしまう。適当にニコニコと相槌を打つだけ、そういう後の疲労感は大きかった。事情を知っている子もいたけれど、そういう会話が平気なふりをしていた、変に気を遣われるのが嫌だった。

 

 

今思えば、母親に愛されていたとは思う。

小さい時からキャンプやら登山やらテーマパークやらいろんなところに連れて行ってもらっていたし、望めばどんな習い事もさせてもらえた。

片親だからと不憫な思いをしなくて済むようにと、離婚してからだっていろんな経験をさせてもらったし、衣食住に困ることもなく育てて来てもらった。今考えれば、当時の自分を否定する感情に駆られることもある。だけど当時の自分は苦しかった、自分の中でまでその感情を風化してしまいたくない、そんな人間にはなりたくない。「毒親」や「虐待」の線引きはよくわからないし自分のこととなるとどうしても主観的に考えてしまうことも否めない。だけど当時の私にとって母親といることは苦痛で、恐怖や憤りの対象で、家族との時間は地獄だった。周りの子が羨ましかった、なんで自分の親はこの人なんだろうって何度も恨んだ。

母親が大変だったのは分かる、私しか頼れる人なんていなかったのも頭では理解していた。だけど中学生の私にはキャパオーバーだった、仕事や父親の愚痴を毎日の様に何時間も聞かされて、いろんなことを相談された。父親の収入の話をされた時は本当にしんどかった、そんな話を私にして何になるのって。私の気持ちは無視なの?って。

あの人のかけてくる言葉にはいつも拒絶がベースにある。
私が学校を休む時も困惑じゃなく叱責の口調で話しかけてくる。自分に原因があると自覚しても尚母親というのが子供より上だと考えている。私をひとりの人間として見ようとはしない。

 

「育ててやったのに」
なんて自己中なんだろう。

 

けれどあの人は私を捨てない。そして都合のいいところだけ切りとって先生や隣人に話をする。

「良い親」を演じるためのいい道具、そう思われている気がする。

 

だから。
次何かあった時、私があの人を捨てる。
どんなに淡い期待を抱いたって「普通」の母娘にはなれない。
あの人はあの人で根本は結局変わらなくて。あの人からしたら私は可愛げのない娘で。
もっと早く切ってしまうべきだった。 

 

仲介してくれる人が一人もいないこの家は
あまりにも狭かった。

 

物語なら壊れる寸前で誰かが手を差し伸べてくれるけれど
現実はそんなこと無かった。

 

仕方ない、私が強くなるしかない。

中学受験のこと

私が受験を決めたのは小5の夏だった。

小4の終わりにたまたま受けた模試、学校で一番の成績だった私は全国ではどのくらいの位置にいるんだろう、そんな軽い気持ちだった。

結果は散々だった、ショックを受けた。

それから半年間弱、自力でたくさん勉強して、小5の6月にまた同じ模試を受けた。

点数は格段に上がった、算数は満点、国語も9割取れていた。

この時期からの入学生としては特例、上のクラスに入れてもらえると塾長から言われた。

中学を受験するなんて概念がそもそもなかった私だけど、「その成績で受験をしないのはもったいない」という言葉に揺れた。今まで見たことのない上の景色を見たいと思った。母親も乗り気で、入塾を決めた。

 

けれど、想像していたより何倍もしんどかった。今まで塾に通ったことのない私にはその環境の変動が肉体的にも精神的にも負担になった。帰宅は毎日21時半を過ぎる。寝るのは日付の変わった頃。生活リズムは一変した。

それまで人見知りなんて一切したことなかったのに「この人たちみんな自分より頭のいい人たちなんだ…」って威圧されて、塾では一言も話さなかった、話せなかった。

他の子より1年半以上遅い入塾だったから私が入った時にはもう理科社会のカリキュラムは一周終わっていて、ついていくのが精一杯だった。理社は最後の最後まで苦手科目として足を引っ張ってしまった。

初めて電車を乗り継いで受けに行った大きい会場での模試は偏差値50を切る教科があって、クラス最下位で、「この次もこの成績だとクラスを下げるかもしれない」と言われた。良く分からない感情に意図せず涙が出てきた。

 

全国模試の成績優秀者として冊子に名前が載ったのは結局一度だけだった。

入塾当時は全国で一番の学校に入ると豪語していたのに、受験間際には目標なんてもうぐちゃぐちゃだった。

 

受験期何回も「あと数ヶ月頑張ればもう目一杯遊べるんだから」と言われた。小学6年生の私はその言葉をまっすぐに信じて毎日10時間以上勉強した。しんどくて布団に入ってから毎日のように泣いていた。寝る直前に冷凍庫から保冷剤を2つ取ってきて、布団に潜って泣いた後に目に乗せてそのまま寝落ちしていた。成績が下がれば母親から怒鳴られて、ギャン泣きして翌日腫らした目で模試に向かったことも何回もある。

「偏差値の低い学校にわざわざお金払って入る必要ない」が母親の口癖だったから、塾の先生に猛反対されていたというのに第一志望第二志望第三志望と全て自分の年間平均偏差よりも8以上高い学校だった。気付いた時には「私の志望校」ではなく「母親の志望校」になっていた。それでも、塾の先生が言っていた、「親に土下座して「受験やめさせてください」って言えないなら勉強しろ。」という言葉を思い出してなんとか自分を奮い立たせていた。年間100万円以上かかる塾代、そりゃ母親も期待する。軽い気持ちで「受験する」って言ってしまった自分を恨んだ。

 

入学試験、散々な結果だった。

第一から第三志望校まで全部落ちた。

今でも覚えている、第一志望の合格発表の時、カメラがいくつも入っていて、合格を掴み取った子たちを映していた、そして私はその子たちの横を逃げるようにして俯いて歩き去った。夕食中にニュース番組で合格発表の掲示を待つ私が映っていた。母親にも「〇〇くんのお母さんがテレビに映る(私)を見たって。」って言われた。惨めだった。

その時合格をもらっていたのは滑り止めで受けた学校だけ。行くあてがなかった、第三志望の合格発表後、母親に呆れられて「もう不合格の電話をかけるのは嫌だ」って置いて行かれて、駅のトイレで泣きながら塾に電話をかけた。

それでもなんとか翌日の試験で合格して、帰り道、塾に電話をかけた。思わず笑みが溢れた。あの帰り道の景色、「昨日は泣いていてどうなるかって大丈夫かって心配だったけど今日こうやって明るい声が聞けてよかったよ。」って塾の先生に言われたこと、今でも鮮明に覚えている。

そんな時に告げられた第二志望校からの繰り上げ合格。あんなに喜んでいる母親を見るのは初めてだった。急遽進学先を変えた。言葉で表現できないくらい嬉しかった。

もともと行く予定だった学校も偏差値60を超えていたけれど、同級生にどこ中に行くか訊かれた時、恥ずかしかった、言えなかった。

この学校なら、胸を張って名前を言えると思った。

 

どんな友達ができるだろう

授業ではどんなことを学べるんだろう

春からの新生活に胸を躍らせた。

 

こうして、私の「中学受験」は満開の桜が咲き誇って幕を閉じた。

辛と幸

「辛」と「幸」について考えていた。

 

「それがあなたの幸せとしても」という曲の中に

 

あなたが抱えてる明日は辛くはないか 

僕にもがいてる文字に一つ線を引かせて

 

という歌詞がある。

この曲を初めて聴いた時からその言葉がずっと心に残っている。

 

 

自分がつらい時、それはもしかしたら誰かの「辛」に一本線を貸してあげた時なのかもしれない。世の中には人口全員分の線がないのかもしれない、だからみんなで分け合って時には一本を借り、時には一本を貸してあげたりするのかもしれない。そう考えたら少し心が楽になる気がする。つらい時はそう考えて優しい自分を労ってあげればいいのかなって。

 

 

「辛」という字は「つらい」と同時に「からい」とも読む。

人間の感覚の中でからさと言うのは痛覚。痛いからつらい、なるほどなって思った。

 

なんとなく考えていたことを今こうやって言語化していると自分の頭の中が整理されていくみたいで明るい気持ちになれる。

いつかの日記

本当は分かってる。自分が全然頭が良くないこと。

以前は学校の中では下の方でも全国模試で偏差値60を下ることはなかった。だけど最近はてんでだめ、わからないところがわからなくなってどんどん同級生との差が開いていって。体調が良くて今日こそ勉強できるって思っている日は大抵家に帰る途中に体調悪くなって結局何もできないまま布団にくるまってしまう。妥協だと思われたくない、努力できないバカだって思われ続けたくない、変わりたい。共通テストの自己採点も散々だった、履修してないなんて言い訳出来ないレベル。英語や国語は周りの子が軒並み140150なのに私は2桁。言い訳は見苦しい、努力しなきゃ。甘えだと思われたくない、可哀想な子だとも思われたくない。「まだ今からなら大丈夫だよ」って言ってもらえる時期はもう終わった、大学進学したいなら勉強しなきゃ。本当にろくなところに入れない。もしこれから何十年も生きていくなら、普通の人として生きるなら、そうなら学歴でバカにされるような人生は嫌だ。そう思うけれど、実際のところ私には生きたいという欲がない、明日死んでも悲しみに暮れることも現世に戻りたいと思うこともない、だから自分でも困る。知的欲求とか自己実現の欲求が全くない、何がなくなっても悔しいとか悲しいとか思えない、病むだけ。でもこの学校にいる限り勉強をきちんとこなさなければ単位が取れないし進級できなくなるしそうなったら私には行き場がない。先生や親のいう「最低限」が私にとっての「過剰努力」だから話も噛み合わない、だけど私のそんな感情知られたら今よりもっと見放される、それも怖い。

中途半端な生き方。死にもしない、死ねないから生きているだけ。人生なんててんで面白くない。周りの子が掲げる志望校やら就きたい職業やらが輝かしすぎて私にはついていけない。不安と、焦りと、自責感。負の感情が渦を巻いて胸の奥でループしている。

私はどうやって生きたらいいんだろう、無理して努力して掴み取ったものの先に光なんて果たしてあるのだろうか。一回失敗してしまった私は上を見ることに随分と臆病になってしまったようです。